現代「帝国」論(3)

query_builder 2024/06/23

おはようございます。

今回は、第2次世界大戦後の様相をお仕えしましょう。

同戦争で、強(きょおうじん)(な戦いをした日本も、「戦況(せんきょう)我に利あらず」、次第に敗色がが濃厚になってきます。水面下の和平交渉もありましたが、特に、日本の側の関心の深かったのが「国体」の護持(ごじ)ということで、即ち「天皇制」の存続でした。

そのうち「ポツダム宣言」を連合国から、突きつけられた日本でしたが、日本としては、「国家統治の大権を変更しないもの」という理解の下にあることを交渉条件とし、連合国、ことに米国も、そのことに暗黙の了解を与えていました。

当時の日本政府、軍部の中では、中々意見がまとまらず、広島、長崎への原爆の投下の被惨事を経て、ようやく御前会議の場において、当時の鈴木貫太郎首相は、異例の昭和天皇のご聖断を仰ぎ、ポツダム宣言の受諾を決めました。そして、1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送をもって、国民に知らされ、長きにわたった戦争は、一応の終結を見たわけです。そして、その後の9月の降伏文書の調印にいたります。

この時、天皇のご聖断がなければ、戦争は続いていたかもしれません。当時の日本軍には主戦論が、まだまだ盛んで、「本土決戦」論もありました。「立憲君主制」下の日本において、天皇が、政治にくちばしをを入れることは、滅多にありません。大きくは、2.26事件の鎮圧の際と、このご聖断の時、くらいでしょうか。戦前の天皇の「権威」は、現代の日本では想像もつかないほどの高さにありました。

そして、戦後、日本は、連合国(特に米国)の占領の下に置かれたわけですが、ポツダム宣言の受諾は、一部、伝えられているような「無条件降伏」ではありません。ともかくも、米軍による直接統治ではなく、日本政府を通じた間接統治の次第になりました。連合国(GHQ)は、数々の民主化政策を進めましたが、ここでは詳細の説明は割愛しましょう、憲法改正については、厳密に言うと、国際法違反なのですが、敗戦の現実の下においては、受け入れざるをえません。ここでも、眼目は、「国体」の維持です。当時の幣原喜重郎首相は、天皇制維持のために「戦争放棄」の規定を受け入れたと「推測」されます。当初、日本に尊大な態度であった米国も、連合国最高司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇の会談を機にして、その姿勢を転換します。そして、天皇制は維持されることになりました。

ただし、米国としては、戦争時の日本軍の「強さ」は、当時の天皇制にあると見ていましたから、日本が、将来、再び、米国の「脅威」とならないように、戦後の諸改革を進めます。日本の教育制度と内容を抜本的に改め、憲法上では、天皇の地位は「象徴」とされ、宮家は削減され、華族制度は廃止されます。戦前、「統治権の総覧者」であった昭和天皇は、戦後は「象徴」としての天皇として振る舞われ余す。戦後の、天皇の「人間宣言」、日本各地への「ご巡行」などを経られて、戦前、神格化されていた天皇像の変革に努められます。そして、やがて平成天皇(現 上皇陛下)の時代になられて、さらに「象徴天皇」としての振る舞いを強化され、ご公務に励まれていらっしゃいましたが、先年、生前退位され、今の、今上陛下の下で、「令和」の時代を迎えます。令和の時代は、まだ、始まったばかりですが、コロナ禍に世界中が見舞われるなど、前途多難な出発になっています。

戦前の「統治権の総攬者」の立場から、「象徴」としての立場としての天皇制のあり方はどう変わり、今後、また、どう推移していくのでしょう。次回は、戦後に焦点を当てて、天皇陛下の務め、分かりやすく言えば「お仕事」とは、何かについてお伝えしたいと思います。現在の国民には、十分に知らしめられていない、理解されていないと思いますので。

----------------------------------------------------------------------

バーチュー・クリエイティング株式会社

住所:東京都渋谷区恵比寿1丁目19-19 恵比寿ビジネスタワー10F

電話番号:03-5708-5985

----------------------------------------------------------------------